けんごのお屋敷

2019-04-01

LINE Fukuoka での 5 年間を振り返る

2019 年 5 月で LINE Fukuoka を退職します。

先日最終出社に成功して時間的に余裕ができたので、約 5 年間在籍した LINE Fukuoka の想い出を綴っていきたいと思います。退職は何度か経験していますが、ここまで感傷に浸れる会社は初めてです。長いようで短かった LINE Fukuoka で過ごした時間を振り返ることで、もう一度自分を見つめ直す良い機会になると信じて。感謝の気持ちを忘れないように。

エンジニアとしての僕

僕が LINE Fukuoka に来たのは 2014 年のこと。いわずもがな開発職としてジョインした。開発組織を立ち上げるという話が出てきたかなり初期の頃だったので、当時まだ福岡にはかなり少数のエンジニアしかいなくて、オフィスの端っこの空いたデスクに雑に座ってたのを思い出す。

最初の 3 年間は開発者としてほとんどの期間を LINE 占いやトーク占いというプロジェクトに費やし、その中で素晴らしく優秀でそれでいてとても優しい同僚と一緒に働くことができたのは、とても光栄だったし貴重な経験になった。ハッカソンやワークショップ、勉強会など、プロジェクト外の人たちと交流するたくさんの機会にも恵まれ、エンジニアとしても人間としても大きく成長できたと思う。

LINE Fukuoka は、これまで経験したことのない程の働きやすさで、エンジニアの働く環境については本当に文句のつけようがないくらい素晴らしかった。良い点を上げるとキリがないし、そういうのはインターネット上に割とたくさんころがってるけど、最も驚いたのは全員が全員、裁量労働制を使いこなしているということ。働かせ放題という空気は全くなく普通に午後から出社することも多かったし、僕なんかは 9 時前に出社して 18 時くらいには帰ってたし(もっと早く帰ることも多々あったし)、ほんとうに成果さえ出していれば自由に働ける環境だった。

それに、少なくとも僕のいた福岡ではエンジニア同士がお互いを信頼したり尊敬したりする文化が根付いていて、同僚も上司もみんな優しすぎた。本当に。たくさんの良い人達に恵まれて本当に幸せで、控えめに言って最高だと言える労働環境がそこにはあった。

とはいえ悪いところが 1 つもなかったのかと言うとそれはウソだし、巨大な組織ならではのやりにくさとか複雑性みたいなのはあったけど、愚痴や文句をインターネッツで書き殴るのはあまり好きではないので、気になる人は続きはオフラインで。

マネージャーとしての僕

そして、後半の 2 年間は機械学習やデータ分析を専門とする福岡の Data Labs という組織のマネージャーにロールチェンジして、組織の拡大や採用、メンバーのメンタリングなどに注力した。いま思い返すと福岡の Data Labs はたった 3 人で立ち上がった小さな小さなチームで当時はろくに期待もされてなかったと思うけど、福岡でバリューを発揮していくためにどうすればいいのかを必死に考えながら色々なことにチャレンジした結果、紆余曲折ありながらも今では福岡での役割や責任、認知度、組織の規模などが大きくなり、チームから室になるまでに成長することが出来たし、それにともなって室長という肩書もついた。

これはひとえにチームのみんなが一生懸命に頑張ってきたおかげとしか言いようがない。マネージャーはヒエラルキーの上層に位置するという見方をされるのが大半だけど、最近は単なるロールに過ぎないという考え方も多く、僕はその考えの方が好きだし実際にそう信じて役割を全うしてきた。

こうなるまでの道のりは当然平坦なものではなく、何度も壁にぶち当たっては現実逃避したり乗り越えようとしたりもがき苦しんできた。自分はこの会社に必要とされてるんだろうか、マネージャーなんていなくても組織はうまく回るのではないか、本当に福岡で Data Labs は必要とされているんだろうか、バリューは発揮できただろうか、ということは今でも不安になる。

組織の中での役割というのは自分の希望が単純に与えられるだけではなく、自分が動いた結果としてついてくることも多い。良くも悪くもほとんど全てのことは人によって決定されるし、会社という人格が存在するわけではない。そういう意味では会社それ自体は何も決めてくれないし、会社の方針もまたそこに属する人たちによって意思決定されている。マネジメント層に近づくにつれて誰も何も教えてくれずに、自分自身がその意思決定をしないといけなくなる。(当たり前のことだとは思うけれど) これが僕が室長になるまでの道のりで気付けたことであり、裁量と自由があるということは想像以上に辛く険しい道のりの途中に投げ出されるということ、いやそれは轍すら無いオフロードだとも言える。

ただしそれは悪いことではなく、自分の責任で何もない道を整備していくことができる - つまり “何でもできる” - ということにほかならない (決して職権の乱用とかそういう話ではない)。そういうところに気付いた上で、自分の手によって物事を良い方向に進めることができるんだと信じて正解の無い未来へ向けて行動してきたことこそが、先の自分の不安に対する自分なりの答えだったのかもしれない。

これからの僕

「せっかく室長にまでなったのに…」。辞めることを知った周囲の人たちが、一言目にはこう残念がることがあった。

LINE のような IT 企業に入ってエンジニアとして頑張ったあとに、マネジメント方向へ進みそのままシニアマネージャーとして活躍していくキャリアは、なるほどキラキラして見えるのだろう。僕としては、マネージャーが辛くなかったかというとそれはウソになるけど、楽しい面ももちろんあって、会社への貢献度を上げながら自分の組織が成長していく過程を体験するのはとてもやりがいはあったし面白かった。

だったんだけど、やっぱりどこかで捨て切れなかった。もう一度自分の手を動かし、物を作り出し、技術を追いかける、そういうエンジニアとしての生き方を。マネージャーへとキャリアチェンジする渦中、エンジニアとしての生き方を書き綴った 2017 年の振り返り の記事や、そこに書かれているエンジニアとしての行動原理などには、エンジニアを諦めきれない気持ちが見え隠れしている。もちろんマネージャーのとして役割を全うしようとこれまで頑張ってきたのは本当だし、一時期はずっとそのキャリアを歩んでいこうと考えたこともある。でも…ずっと違和感はあった。時が経つにつれてこの違和感の正体は自分でも分かるようになってきたけれど、それはこんなところでは書くことができない、まるでドロドロとしたようなものだ。

とにかく、僕はもう一度エンジニアとしてチャレンジしたいと願いながら会社と対話を続けてきたけれど、今回は思い切って外に飛び出してみることにした。LINE Fukuoka が嫌いなわけではない。LINE Fukuoka に入社してからは社内でも社外でも本当に数えきれない程たくさんの出会いがあって、その一つ一つがおしなべて僕の人生を豊かにしてくれた。一緒に働いてくれた同僚や上司には今となっては感謝の気持ちしか無い。わがままな話ではあるけど、もう少し、もう少しだけ僕の望むエンジニアとしての経験を積むことができたら、今度はマネジメントとしてのキャリアにも自信をもって飛び込めるんじゃないかなと思っている。もちろんそういう機会に恵まれれば、という話ではあるけど。

僕は今年で 35 歳になる。一昔前まではプログラマ 35 歳定年説という話をよく聞いたが、気付けばそれと同じ年齢にまで達してしまった。もちろん近年そんな話を信じてる人は少ないだろうし、まだまだ自分の能力を信じているので、これからも怖気づくことなく挑戦を続けたい。これまでの経験も引っさげて、ガムシャラに努力していこうと思う。

おわりに

さて、おわりに。

ここで書けないような楽しいことも辛いこともたくさんあったけど、それも全部含めて僕の LINE Fukuoka の 5 年間。先にも書いたけれど、LINE Fukuoka はエンジニアにとってとても働きやすい企業です。Data Labs も開発室も LINE Fukuoka それ自体も、まだまだ成長していけると信じていますしエンジニアの採用も積極的にやっているので、興味のある方は SNS でも実際に会った時でも、なんでもいいので私に声をかけてもらえれば社内の偉い人に繋ぐくらいはできそうです。(それが実際に採用に繋がるかどうかは別として笑)

最後に LINE Fukuoka の同僚や上司たちに向けて。さよならは悲しいので、またどこかで会えることを信じて…

いってきます!

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